-Death On The Stairs-

So baby please kill me Oh baby don't kill me 浦和とかサッカーとかサブカルとか。

ぼんやり映画感想 「君の名は。」

最近はあちらのブログばかり更新して、もはや「ラブライブ文壇のひと(なんだそれw)」みたいになっているので、久々にこちらでw。

話題の君の名は。を見てきたので、ぼんやりと感想だけでも残しておこうかなという感じです。

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解説(映画.comより)

雲のむこう、約束の場所」「秒速5センチメートル」など、男女の心の機微を美しい風景描写とともに繊細に描き出すアニメーション作品を手がけ、国内外から注目を集める新海誠監督が、前作「言の葉の庭」から3年ぶりに送り出すオリジナル長編アニメ。「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」などの作品で知られ、新海監督とはCMでタッグを組んだこともある田中将賀がキャラクターデザインを手がけ、「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」などスタジオジブリ作品に数多く携わってきた安藤雅司作画監督。主題歌を含む音楽を、人気ロックバンドの「RADWIMPS」が担当した。1000年ぶりという彗星の接近が1カ月後に迫ったある日、山深い田舎町に暮らす女子高生の宮水三葉は、自分が東京の男子高校生になった夢を見る。日頃から田舎の小さな町に窮屈し、都会に憧れを抱いていた三葉は、夢の中で都会を満喫する。一方、東京で暮らす男子高校生の立花瀧も、行ったこともない山奥の町で自分が女子高生になっている夢を見ていた。心と身体が入れ替わる現象が続き、互いの存在を知った瀧と三葉だったが、やがて彼らは意外な真実を知ることになる。声の出演は瀧役に神木隆之介、三葉役に上白石萌音。その他、長澤まさみ市原悦子らが出演。

スタッフ(映画.comより)

監督
新海誠
原作
新海誠
脚本
新海誠
製作
市川南
川口典孝

 

 

 

 

 

キャスト(映画.comより)

youtu.be

 

 

 

■前置き

さて、ここで私の戯言を読むよりも、有意義な「映画との付き合い方」をご案内しつつ。

まずは、宇多丸師匠のこちら↓を聴いたのち...


宇多丸がアニメ『君の名は。』を語る

 

町山さんの「映画ムダ話」を聴けば...

tomomachi.stores.jp

 

大体全容は掴める上に、よっぽど有意義な時間になると思うので、まずはそちらをおススメいたしますm(__)m

本文はあくまでも「リアルタイム」で「2016年を代表するであろう映画を見た」という事実のメモ書きに近いので、先を読まれる方もそれを心置き頂ければ幸いです。。

それでは下記個人的感想です。

■新海作品のこれまでと、それ故の問題点

まず、はっきりと申しておきたいのは、私はこれまでの新海誠作品を、割と「好きではない」ということです。

代表作である「秒速5センチメートル」や「ほしのこえ」なども設定に面白さを感じるし、風景描写にも「スゲェ」と唸りましたが、「それだけ」でした。

近作である「言の葉の庭」に至っては、その無茶苦茶なストーリーが明確に「嫌い」でした(言の葉の庭が好きな方申し訳ありません。しかしこれは「趣味嗜好」の問題なのでご容赦ください)。

これらの理由はハッキリしていて、それは新海作品がよく言われるように「ストーリーに問題があるから」にほかありません。

町山さんが「映画ムダ話」で指摘されている通り、氏のこれまでに作品には「映画的な物語の起伏」がありませんでした。

「圧倒的な風景描写」と「センチメンタルな舞台設定」がただ漠然と「存在しているだけ」。

これらは物語の中で「変化」していきません。

主人公たちは「ままならぬお互いの運命」を嘆きながら、それを積極的に「変えよう」ともしません。

ただただ流れていく時間に身を任せ、「時」が「問題を解決する」のを待ちわびます。

そして結果として問題は「解決せず」に終わることがほとんど。

それがこれまでの「新海作品」でした。

もちろんこういった映像作品はあっても良いですし、実際存在します。

また、これまでの「新海作品」が好きだった人たちは、この「センチメンタリズム」を愛していたのでしょう。

しかし、反面この世界観を好まない人も多数います。

これは「趣味嗜好」の話になってしまうので、ことさら大げさに受け取ってほしくは無いのですが、やはり「映画」とは欧米を中心に発展してきた文化であり、それに倣った「文法」のようなものも存在するのです。

※それが良い悪いという話になると、話題自体が横道に逸れてしまうので、今回は目をつぶってください。

その「文法」とは「戦う」あるいは「運命に抗う」というもの。

もちろん全ての映画に、上が応用される必要もないのですが、こと「娯楽映画」に関しては、どうしても必要なものになります。

そしてその要素がこれまでの新海作品には決定的に欠けていたのです。

 

「でも新海監督って娯楽映画作家じゃなくねぇか?」

とおっしゃったアナタ。

その通り。

氏はひたすらに「内省的」で「個人的」な「モノローグ」を中心にした物語を「ほぼ一人」で作り続けてきた、いわば「芸術家肌」の「映像職人」です。

いわゆる「娯楽映画作家」とは真逆にいる存在。

しかし、それはあくまでも「見た目=フォルム」のお話。

彼のこれまでの作品の「核」を見つめた時、彼本来のもつ隠された(?いや、実際にはダダ漏れなので隠されてはいないけど)「特性」が見えてきます。

そしてそれは彼の作品の「特長」でもある「センチメンタリズム」にも深く関係しているのです。

■「エモさ」という視点

「エモさ」は「エモーショナルの度合い」を示す言葉として使われますが、明確な定義はありません。

ただし現在では主に「感情が揺さぶられるような出来事」や「シーン」を見た際に「これはエモい!」などと使われることが多いように感じます。

さて、この「エモさ」は、新海作品を読み解くうえでの「キーワード」になります。

まず氏の作品の特長である「センチメンタリズム」。

これは見る側の感情を激しく揺さぶる要素であり、非常に「エモい」部分でもあります。

氏はこれまで「移りゆく時代」や「運命」に「抗えずにいるもの」の、その事実を「寂しく受け入れる人々」を作品内で描き、そこに「センチメンタル」という「エモ」を追求してきました。

「圧倒的な風景描写」と「センチメンタリズム」。その二つが重なり合えば確かに「映像作品」としての爆発力を生み出します。

しかし、それを連ねる「フック」が弱ければ、爆発力にも「限界」が生まれてしまいます。

氏の作品はその「フック」が弱かった、と思うのです。

 

こういった要素は三宅隆太さんの著作「スクリプトドクターの脚本教室・初級編」に登場した「シナリオ作りをする際に注意しなければならないポイント」を思い起こさせます。

スクリプトドクターの脚本教室・初級篇

スクリプトドクターの脚本教室・初級篇

 

 三宅氏が注意点の一つとして挙げているのは、

「自分が描きたいシーンから逆算してシナリオを書かないこと」というもの。

もちろん「パッと浮かんだ素晴らしいシーン」を物語に組み込みたいという気持ちが誰にでもあるはず。

しかしその「シーン」は「あくまでもパーツ」にとどめなければならない。

もしも、その「シーン」を「軸」に物語を書き進めてしまうと、必ずどこかで「齟齬」が発生してしまい、やがてその「齟齬」が物語全体を破たんに導いてしまう...という指摘でした。

これはまさしく「言の葉の庭」で「やってしまっているミス」だと思うのです。

 

言の葉の庭」を見ていた時に特に「これはだめだなぁ」と思ったのは、終盤の展開でした。

主人公2名に訪れる、決定的な「すれ違い」と「和解」。

そして彼らを取り巻く圧倒的な「風景描写」。

流れる「主題歌」。

これらは凄まじい熱量をもった「エモさ」を誇るシーンになっています。

しかし視聴者は「画面内の人々」の感情に付いていけません(少なくとも私は置いてけぼりでした)。

恐らくその理由とは、作品を作る段階で「このシーンを書きたい!」と新海さんが思いつき。

その発想をもとにシナリオを書き始めた結果、このシーンに連なる「彼らの背景説明」や「状況説明」、「感情の動き」などの「フック」作りが「疎か」になってしまったから、なのではないでしょうか。

これが「Rain」のPVならば、この作りでもそれほど問題は無いのかもしれませんが、これはPVではなく「言の葉の庭」という「映画」なのです。

「映画」で「エモさ」を演出するためには、やはりそのシーンに至る「過程=フック」を綿密に描く必要があるはずです。

それがなければ一番重要な「エモさ」が半減してしまうから、でもあります。

 

しかし、ここで伝えたいのはいかに「言の葉の庭」が「ダメだったか」ということではありません。

何故ならこのシーンの持つ「エモさ」は、確実に「一定の視聴者」を捉えてもいるからです。

明らかに上手くいっていない「シナリオ」にも関わらず、その「シーンの爆発力だけ」で観客を感動させられる、というのは並大抵の「エモさ」ではありません。

ここから分かるのは、新海監督の持つ「特長」の凄さ、でもあるわけです。

そしてそれを「証明した」という意味では「言の葉の庭」が果たした役割は大きかったようにも思います。

今までは「センチメンタリズム」としてばかり表現されてきた、氏の「エモさ」が、初めて明確に「スパークした」表現として登場したのが「言の葉の庭」でもあったからです。

「この爆発力を上手く導いてあげれば、スゴイ娯楽作品が生まれるかもしれない」東宝プロデュースチームが思ったかまでは分かりません。

しかし結果として「君の名は。」が絶妙なバランスを以て、2016年の今生まれたのは、プロデュース側が新海監督の「問題点」と「良い点」をハッキリと「見抜いた」上で、「娯楽作品制作」を依頼したこと。

そしてそれを成立させるために、「最良のバランスを模索したから」こそと思うのです。

それはまさしく宇多丸師匠が批評内で触れた「チューニングの勝利」だと思います。

 

■「チューニングの勝利」

ようやく「君の名は。」の話になるわけですがw

実は「君の名は。」でも「新海作品の持つ問題点」は根本的には解決されていません

シナリオには相変わらず「穴」と「突っ込みどころ」は多いですし、そこから派生する「ご都合主義」もなかなかのものです。

しかしそれらの要素が明確な「ノイズ」になりづらいのは、「物語全体の持つエモさ」という「快楽」が、そういった「ノイズ」を打ち消すほどの「力」と「説得力」を持って、作品内に鎮座しているからでしょう。

そしてそれを成立させているのが「チューニング」です。

脚本は今回は新海氏ひとりではなく、東宝の川村Pを始めとした東宝チームとの「協同制作」だったことが監督本人の証言から分かっています。

この「協同制作」の役割とは、やはり脚本内の「齟齬」を補てんするための、「ブラッシュアップ」でしょう。

かなり苦労はしたと思いますが、結果としてその「ブラッシュアップ」が、「ノイズ」を減らし、逆に新海作品の持つ「良さ」を強調する効果をもたらしたようにも思えます。

またキャラクターデザインを新海さんではなく、「あの花」などで知られる田中将賀氏に依頼。

田中氏は、どこか「無機質で、人間的な魅力が希薄だった新海作品のキャラクター」に、「血肉を与える」という意味で大きな役割を果たしていらっしゃいます。

その成果はサブキャラクターの「良さ」に如実に現れています。

ヒロイン三葉の幼馴染である勅使河原君と名取さんは、非常に感情豊かなキャラクターで、三葉の日常だけでなく、彼女たちが暮らす「飛騨」という場所の説明も忌憚なく行ってくれます。

同じく主人公である瀧の同級生である藤井君と高木君も、同じような役割を「東京」で果たしてくれます。

また、彼らの存在は「状況説明」に役立つだけではありません。

今まで主人公の「独白=モノローグ」ばかりが続き、結果として「物語がまったく進んでいかない」という問題点を「サブキャラクターと主人公を会話」させることで「物語をどんどん進めていく」という作劇方法に変化させることが出来ました。

これによって今までどこか「のんびり」していた新海作品に、明確な「スピード感」と「リズム感」が加わりました(これは娯楽作品にとってとても重要なことです)。

また、その変更が、作品全体にどこか「暗くて、いなたい」印象を与えがちな「モノローグ」自体を減らすことにも成功したのです。

映画全体の作画監督も、新海氏ではなく、スタジオジブリ安藤雅司氏が担当。

氏の貢献は主にキャラクターの「動き」に現れていて、こちらもまた新海氏が「得意ではなかった」「活き活きとした人物」の動きが、随所に見られるようになっています。

 

また楽曲をRADWIMPSに依頼できた...というのも大事なポイントです。

現在邦楽において「エモさ」を強調したバンドは数多あるものの、その潮流を生み出した中心にいたのが「RADWIMPS」です。

今からちょうど10年くらい前。

音の「エモさ」で邦ロック再興の中心に立っていたのが「ELLE GARDEN」だとすれば、言葉の「エモさ」でシーンに「ふわっ」と登場したの「RADWIMPS」でした。

彼らの紡ぐ「詩」はいわゆる「セカイ系」に近いもので、当時から彼らを「苦手だ」と言う人も多くいました。

その反面、ボーカル=野田洋次郎が紡ぐ歌詞の天才性と、楽曲のポップ性が10代を中心に圧倒的支持を集め、それが今の邦ロックのシーン自体を形成していったわけです(その良し悪しに関してもここで問うのは止めておきましょう)

図らずとも新海誠氏が自身のブレイクのきっかけとなった「秒速5センチメートル」を発表したのは2007年。

同じ時代に、似たテーマを以て活動してきた両者が、ここにきて一つの「作品」を作り出す。

主題歌「前.前.前世」を始め、「時代を代表するロックミュージシャン」が、劇中の楽曲全てを「作品のために書き下ろす」という離れ業を果たしたのも、両者に不思議なシンパシーがあったからこそ。

そしてそれは「約10年」という時間を、どこか「仲間意識」を持って過ごしてきたからこそなのでは、とも思えます。

また、この「不思議な縁」というのは、実に「新海作品」らしいな、とも思えます。

これは「チューニング」というよりも、新海監督の「実力」の一端でもありますね。

※初期RADWIMPSを代表する楽曲「ふたりごと」は、特に新海作品との「共通性」を感じる曲です。


ふたりごと RADWIMPS MV

 

主演の神木君、上白石さんの好演も、作品を成功に導いた要因。

特に三葉を演じた上白石萌音さんは、どうしても「舞妓はレディ」の印象が強いわけですが、「声でここまで演技できるのか」と驚愕しました。

特に「入れ替わりで中身が瀧になっているところ」の演技など素晴らしかった!

神木君はもとより、今後の萌音さんの活躍にも注目したいですね。

 

...と、ことほどさように映画全体を司る「チューニング」が上手くいっている作品です。

これはもちろん、東宝チームの「素晴らしい仕事」でもあるわけで、「プロデューサーって大事なんだなぁ」と改めて尊敬してしまいますが。

それだけでなく、重要なのは、これほど様々な仕事を「他者に振り分けることを認めた」新海監督の「懐の深さ」です。

元来「一人でアニメを作り続けてきた」「芸術肌の作家」が、「他人」に「自分の作品をゆだねる」というのは、並大抵の決断ではなかったでしょう。

しかし、その「勇気ある決断」が結果として「新海誠」の名を高め、氏の「代表作」を生み出すに至ったわけです。

その成立によって生まれた奇跡的な「チューニング」。

その「決断」を求めた「東宝チーム」、それを「受け止めた」新海監督。

両者へ拍手を送りたいですね。

■2016年の今、見るべき作品。

さて、というわけでどうしても前置きが長くなってしまいましたがw

2016年で「最重要」というわけではありませんが、今後語り継がれていく「映画」であることに疑いようはありません。

かならず「映画館」で見たことが、大切な記憶になる映画だと思います(特に10代の人にとっては)。

まずは「流行っているから逆に見たくない!」とか「新海さん苦手だからなぁ」などのバイアスは取り払って、一度見てみるのが良いと思います。

そして「あそこは良かった!」「あそこは変だった!」「納得いかない」など、喧々諤々仲間と語り合ってほしい作品です。

それだけのエネルギーをもった作品だと思います。

是非「DVDで見ればいいや」などと思わず、映画館でご覧ください。

おススメでございます。