ジョン・カーニー監督と「音楽の夢」
クサクサしていても仕様がないので、目黒シネマに行ってまいりました。
目的は「ジョン・カーニー監督特集」。
昨年の映画の中では「めっけもん」枠に入る「はじまりのうた(原題BEGIN AGAIN)」の監督です。
今年は色々とドタバタしていて、なかなか腰を落ち着けて映画館で映画鑑賞ともいかず。。
数多くの「見たかった映画」をDVD鑑賞でやり過ごす日々だったわけですが。
同監督の2016年公開映画「シングストリート 未来へのうた」もそんな「見たかった映画」枠の1本。
更に同監督の名声を押し上げたと話題の「ONCE ダブリンの街角で」も同時上映。
こちらは地元のT〇UTAYAに何故か在庫がない...ということで長らく見られず悲しい思いをしていただけに、「こいつは渡りに船」という感じ。
結果として2作とも、とても「ラブリー」な作品だった...というだけでなく、「3部作」とも呼べるくらい共通点の多い作品だったので、せっかくだから各作品の感想を覚書程度でも残しておこうと思います。
(この記事には3作品のネタバレが含まれます!読まれる際には映画を視聴になってからを強くオススメします!!!)
あらすじ:
ダブリンの街角で毎日のようにギターをかき鳴らす男(グレン・ハンサード)は、ある日、チェコ移民の女(マルケタ・イルグロヴァ)と出会う。ひょんなことから彼女にピアノの才能があることを知った男は、自分が書いた曲を彼女と一緒に演奏してみることに。すると、そのセッションは想像以上の素晴らしいものとなり……。
■「ラブリー」な映画。
ザラついた35ミリフィルム。
手持ちカメラ多用故の落ち着かない画面。
手慣れない編集と構成。
ぎこちない主演陣の演技。
低予算で、演技経験者もほとんどいないという裏事情がハッキリと見える。
が、しかし。
ここには監督の「夢」と「希望」と「理想」がそれこそギュウギュウに「詰め込まれて」いて、それが映画全体からグイグイと伝わってくる。
その「過剰な思い」は、嫌が応にも視聴者に伝わる。
だからこそこの映画は、完璧ではないけれど、とても「ラブリー」。
「映画」と「音楽」に「夢」を見る人であれば、この作品を「他人事」として見られないはずです。
■「日々の暮らし」と「音楽」
ダブリンで暮らす主人公の「男」と「女」(役名がありません)は、決して「裕福」とはいえません。
「男」は「音楽で食べる」ことを目標としながらもままならず。
母が死に一人で「掃除機修理屋」を営む父親の家業を手伝いながら、暮らしています。
その生活は貧乏とはいえませんが、とてもつつましく見えます。
対する「女」はチェコからの移民。
登場シーンから彼女が「ビッグイシューを売っている人」であることが分かる通り、決して恵まれた生活をしているわけではありません。
彼女は幼い娘と母親(英語が堪能でない)を抱え、一人で一家の稼ぎを賄っています。
物語中盤、CDプレイヤーの電池が切れた際には、電池代を娘のお小遣いから賄わなければならない程度に困窮しています。
とはいえ、この映画ではそんな「困窮」をことさら強調して描くことはありません。
むしろその「困窮」を「日常」として受け入れ、その中にも「楽しみ」や「喜び」や「幸せ」を見出そうとする人々を、優しい視点で描きます。
また、そんな彼らが「やるせない日々」の中で「希望」を見出す存在として「音楽」が描かれます。
どれだけ辛い日常を送る人々でも「音楽」と触れ合っている時だけは一時の「平安」と「幸福」を手に入れられる。
そんな「音楽が持つマジック」を信じたい、という監督の願いが込められているのです。
そして、この「音楽が持つマジック」というテーマは3作品全てに通底していますね。
■「既に閉じられてしまった可能性」と「続いていく思い」
主人公である「男」と「女」が「恋愛関係に近いところまで行きながら、くっつかない」というのは「はじまりのうた」と共通していて、「なるほどここで予行演習をしていたのだな」と思いました。
この「もどかしさ」みたいなものは、日本での「新海作品」にも通じるなぁとかぼんやり思ったりもしましたが。
映画冒頭では性欲全開で「部屋に来ない?」などと誘った「男」が(その後めっちゃ軽蔑されるw)、「女」との信頼関係が深まるほどに、中学生レベルまで積極性が落ちていくのも、「もどかしく」て非常にエモいポイントでしたね。
ただ「男」が奥手になっていくのにはしっかりと理由があって。
それは「女」が「人妻」だから(旦那とは別居中)。
CD製作現場でいよいよ「いい雰囲気」になる二人。
「男」は「女」に「ロンドンへ一緒に行こう」と誘います。
「娘もいるから」と言う「女」に「一緒に住めばいい」と譲歩する「男」。
しかし「母も一緒に住んでいいの?」という言葉には苦笑いで答えるしかありません。
「女」はその表情を見て、「この話はおしまい」とばかりに切り上げてしまいます。
「娘」だけでなく「母親」の人生も「背負ってほしい」という問いかけに、即答できる男性はなかなかいないでしょう。
また「女」も、その答えは予想済みだったのでしょう。
このポイントを最後に、二人の「男女」としての「可能性」は「閉じられました」。
始まった段階から「既に閉じられている可能性」。
お互いを思い合いながらも、簡単には結び付けない「事情」。
これは「ジョゼと虎と魚たち」をなんとなく思い出すシーンでした。
しかし「ジョゼ虎」では完全に隔離されてしまった主人公二人の関係性ですが、「ONCE」では一つの「物」が二人を繋いでいきます。
それは「音楽」です。
二人で作成した(サポートメンバーも込みですが)デモCDは、「形」として永遠に残ります。
また、二人で共同作成した「歌」も、誰かが歌い継ぐ限りは残っていきます。
更に「男」が「ピアノ」という形で「女」に送ったものも、「音楽」を紡ぐ道具として、二人の心を繋ぎ続けます。
例え離れ離れになったとしても「音楽」が時と場所を超えて、人を繋いでいく。
「音楽が持つマジック」を「信じる」気持ちが、ここにも現れているんですね。
■「はじまりのうた」
あらすじ:
ミュージシャンの恋人デイヴ(アダム・レヴィーン)と共作した曲が映画の主題歌に採用されたのを機に、彼とニューヨークで暮らすことにしたグレタ(キーラ・ナイトレイ)。瞬く間にデイヴはスターとなり、二人の関係の歯車に狂いが生じ始め、さらにデイヴの浮気が発覚。部屋を飛び出したグレタは旧友の売れないミュージシャンの家に居候し、彼の勧めでこぢんまりとしたバーで歌うことに。歌い終わると、音楽プロデューサーを名乗るダン(マーク・ラファロ)にアルバムを作ろうと持ち掛けられるが……。
映画「はじまりのうた」予告編 #Begin Again #movie
■「音楽が生まれる瞬間」の美しさ
個人的には、3作の中ではこの「はじまりのうた」が好きです。
「ONCE」を更にブラッシュアップし、テーマを純化させ、主演にキーラ・ナイトレイとマーク・ラファロという「安全安心」かつ「意外性」を見せる二人を起用し、「じんわり沁みる小品」から「エンタメ作品として最高に楽しめて、なおかつ沁みる作品」までVerUPさせた手腕は素晴らしい。
「ONCE」でも主人公二人が初めて「ギグ」をするシーンで印象的に描かれた「音楽が生まれる瞬間」の美しさですが、この「はじまりのうた」ではそれを更に突き詰めて、様々な形で見せてくれます。
冒頭。
友人に誘われる形でオリジナル曲を披露するキーラ・ナイトレイ扮するグレタ。
地味なギターソロにライブ受けしないバラード調の楽曲で、観客も無反応。
しかし、その楽曲を一人真剣に見つめる酔っ払い。
彼こそマーク・ラファロ扮する落ちぶれた音楽プロデューサー・ダンです。
何故彼がそこまで真剣に楽曲に聞き入っていたのかは、この後明らかになりますが...とにかくここに入るまでの演出が秀逸。
過去には多くの大物ラッパーをデビューさせ、時代の寵児だったダン。
しかし今では私生活の乱れと、自身が納得できるアーティストとの出会いが無く、まともにプロデューサーとしての仕事がこなせず「終わった人間」扱いをされています。
そんな彼の「負けっぷり」を丹念に描いたのち、冒頭のシーンへと戻ってくる。
ここで初めて、「ダンの視点」による冒頭シーンが描かれるわけです。
檀上のグレタを見つめる彼の耳に「だけ」聞こえるピアノや弦楽器による伴奏。
それは「地味」なグレタの楽曲をひときわ輝かせる「編曲」という名の「マジック」です。
そしてその「マジック」を聴くことができるのは、脳内で編曲しているダンと、その様子を垣間見せてもらえる視聴者だけ。
楽曲の「可能性」を視聴者にだけ「共有」させることで、映画への「没入感」を高めると同時に、「音楽が持つマジック」をも体験させる。
このシーンだけで5億点差し上げたいくらいに、素晴らしい演出です。
映画中盤では、「ギターをかじりはじめた」娘を録音に参加させます。
決して巧みとはいえない彼女のギターですが、その「未熟な音」は、「この今」でしか鳴らせない音。
それを録音という形で残すことで、「この瞬間にしかない音楽」が生み出される。
これもまた「音楽が生まれる瞬間」の美しさを描いたシーンです。
■「音楽」が「変える」「世界」
「音楽が持つマジック」は「音楽を生み出す瞬間」にだけ存在するわけではありません。
物語中盤。
ダンの持つ苦悩を知ったグレタは、彼をデートへと誘います。
街中で一つのipodからイヤホンを二つ出し、お互いの選曲でDJをしながら歩く二人。
途中「踊りたくなってきた!」「どこか踊れる場所に行きましょう!」とダンと共にクラブに入るグレタ。
EDMで踊り狂う若者たちを尻目に、二人は「二人だけの選曲」で踊り続けます。
「ロマンティックが止まらない」としか言いようがないシーンですがw
デートの終わり。
グレタが選曲したのは「as time goes by」。
NYのなんでもない街並みや、景色がとてもロマンティックに、キラキラと輝いて映ります。
「なんでもない景色が、かけがえのない瞬間に変わる。これが音楽の持つ奇跡なんだ」とダンが語る通り、我々もその「奇跡」を追体験できる。
また「音楽」が(自分から見た)「世界」を変える瞬間を表現した、という意味でも非常に感動的なシーンでした。
■「何度だってやり直せる」
妻との間に「複雑な事情」を抱えるダン。
当初の彼を見ている視聴者は、当然その問題の原因は「ダンのだらしなさ」にあるように感じるはず。
それはグレタも同じ。
しかし、ダンの独白からその「思い込み」は鮮やかに「切り換えされる」のです。
この「裏切り」は鮮やかでした。
また、この事情が分かった上で「父娘」のシーンを見返すと、娘が必ずしも「人間としての父親を嫌っているわけではないように見える」意味が分かるようになっていて、このあたりの演出の繊細さにも舌を巻きます。
ここでダンが決める「結論」は「やり直す」こと。
「人間の弱さ」に優しい視線を送り、そこからの「再生」に願いを込める...という視点は「ONCE」とも同じ。
ここでもグレタとダンは「男女」としての「結びつき」を得ることはかないませんでしたが、それ以上に強い「音楽」という絆で未来永劫結ばれていく。
「音楽の持つ可能性」を信じる、という観点はここでも変わりませんでした。
また「一度終わった」と思っても「諦めずに何度もチャレンジしてほしい」。
そんな「不屈」への願いもこのエンディングには込められています。
また、その思いは「シングストリート」へと引き継がれていきます。
■「シング・ストリート 未来へのうた」
あらすじ:
「はじまりのうた」「ONCE ダブリンの街角で」のジョン・カーニー監督の半自伝的作品で、好きな女の子を振り向かせるためにバンドを組んだ少年の恋と友情を、1980年代ブリティッシュサウンドに乗せて描いた青春ドラマ。大不況にあえぐ85年のアイルランド、ダブリン。14歳の少年コナーは、父親が失業したために荒れた公立校に転校させられてしまう。さらに家では両親のケンカが絶えず、家庭は崩壊の危機に陥っていた。最悪な日々を送るコナーにとって唯一の楽しみは、音楽マニアの兄と一緒に隣国ロンドンのミュージックビデオをテレビで見ること。そんなある日、街で見かけた少女ラフィナの大人びた魅力に心を奪われたコナーは、自分のバンドのPVに出演しないかとラフィナを誘ってしまう。慌ててバンドを結成したコナーは、ロンドンの音楽シーンを驚かせるPVを作るべく猛特訓を開始するが……。
■すべての登場人物が「愛おしい」
舞台が1985年のダブリン。
まさしくその年の日本に産まれた自分にとっては、まったく記憶に無い時代ながら、でもどこか懐かしいのは、これが「全ての兄弟たち」のために作られた映画だからでしょう。
自分はバンドマンを志したことはないですが、ロック好きのキッズだった時代はあるだけに、あの「かぶれる」感じというのは思い入れがあります(照)。
それだけに登場人物の一人ひとりに「俺はお前のことがわかるぞ!!」と感情移入ができるのかもしれません。
この感覚は、指摘されている方も多いのでしょうが「桐島、部活やめるってよ。」に近い感覚です。
あの映画のどこかに「自分」がいたように、「シング・ストリート」もまた「自分の欠片」を探すことが楽しさの一因なのかもしれません。
個人的に「自分に近いか」は置いておいて、「忘れられないアイツ大賞」はバンドのマネージャー兼PAのダーレン。
いつもフワッとチームの輪の中にいて、強く何かを主張するわけではないけど、じっと、愛おしそうに仲間を見つめる「アイツ」。
最後のライブシーンでも散らかった舞台上を、フワっとやってきて掃除するダーレンを見たときに、何とも言えない「胸がギュッと締め付けられるような」切なさを感じてしまいました。
これって恋?(違う)
後はバンドのベースで、お調子者担当のギャリー。
ほとんど台詞が無いにも関わらず、動きだけで「彼のパーソナリティ」が伝わってきたのは、演出の妙。
そしていじめっ子のバリー。
彼が荒んだ家庭環境にいることは途中から分かっていたので、「アイツも救われて欲しい(つд⊂)」と思っていただけに「仲間として迎え入れる」という決断には、「そうだ!そうなんだよ!そいつ悪いヤツじゃないんだよ!!」と胸を熱くしました。
そして何はなくとも主人公の兄貴=ブレンダンですよ。
長兄として家族がダメになっていくさまをつぶさに見続けてきた彼。
そんな彼が「失ったもの」を考える時、本当に胸が押しつぶされそうになりました。
またそれが途中のコナーとのやりとりで明らかになっているからこそ、彼が最後にコナーに送る餞別に「グッと」こみ上げるものが抑えきれなかったですよ。。
■クソみたいな人生の中で輝く「音楽」
時代は大不況のダブリン、ということで登場人物みんな、景気悪化の影響をもろにうけており、「裕福」な生活を送っている人は皆無という状況。
主人公コナーは、
景気の悪化→父親の失職→両親の不仲→絶えない夫婦ゲンカ→母親の不倫発覚→離婚による別居→家は共同保有なので競売に出されることに→自分の家が無くなる
という不幸のつるべ打ち状態。
しかし生きる希望を失わずにいられるのは「音楽」があるから。
ここでポイントになるのは、コナーは決して「音楽で成功して裕福になる」ことを目的として「音楽をやっているわけではない」ことです。
彼が音楽をやっているのは「音楽」自体が「希望」であり、「喜び」であり、「楽しみ」だから。
この感覚は「ONCE」から変わらず引き継がれているものですね。
しかし「現実がクソ」だからこそ「音楽が輝く」という相乗効果に関しては、この「シング・ストリート」は頭一つ抜けている感があります。
特にその演出がスパークしているのは、ドライブ・イット・ライク・ユー・ストール・イットのPVを作成する場面。
Sing Street - Drive It Like You Stole It (Official Video)
コナーが「妄想」するのは、自分が「歌う」ことで「全てが順調になる世界」。
そこでは愛しの彼女がキラキラとした視線で自分を見つめ、厳格で差別主義者の校長が自分たちを認め、両親は仲良く自分の歌を聴きにきて、兄貴はバイクに跨って颯爽と登場し、ライブを邪魔する不良に喧嘩で勝って、コナーに声援を送る。
そんな「現実とは真逆」の世界。
我々は映画世界でのコナーの「現実」がいかに厳しいかを、いやというほど理解しているだけに、ここでの彼の妄想に「胸が締め付けられます」。
そして歌われる歌詞。
「これは君の人生 君はどこにでもいける
君は自分でハンドルを握って ここを抜け出せるんだ」
コナーもこれが妄想であることは十分わかっていても、そう歌わずにはいられない。
それは自分だけでなく、自分と同じように苦しむ人々への「応援歌」でもあります。
この楽曲に込められたメッセージはまるでジャーニーの「don't stop beilivin'」のようです。
Journey - Don't Stop Believin' (Live in Houston)
■「無理かもしれなくても」「漕ぎ出せ」
映画終盤。
校長への復讐を「ロック」で完結させたコナーは、いよいよ「新天地へと旅立つ決意」を固めます。
あても、金もない新天地での戦い。
頼れるのは自分の楽曲と、愛しの彼女だけ。
両親から、兄から巣立ち、一人の女性と「荒波」に立ち向かっていく。
それはある種「人生の分岐点」に対してのメタファーとも呼べるシーンです。
この戦いの成否はおそらく、かなりの確率で「失敗」に傾くでしょう。
※「ONCE」で主人公を置いてロンドンの男と逃げた「彼女」の顔が、ラフィーナに似ているのは偶然...?
しかし、「失敗」するかどうかは「トライしない」限りは分からないわけです。
だとしたらまずは「トライ」しろ、というのがこの映画のメッセージ。
弟の勇気ある旅立ちを見送ったブレンダンが快哉を挙げたのも、その姿にかつての自分、そして未来の自分を見たからではないでしょうか。
「ダメかどうかは自分で決めるな」
「まずは漕ぎ出せ!」
ミュージシャンとしては決して成功できなかったジョン・カーニー監督。
しかし、今はもう一つの夢である映画監督として、しっかりと実績を残しています。
それは彼が「映画監督」という「大海」に「ONCE」という「荒削り」な「自主制作映画」を持って漕ぎ出したから。
「俺は1度目のトライは失敗したかもしれない」
「だけど2度目のトライは成功したぜ」
「だからさ、めげずに何度もトライしよう」
「兄弟たち(全ての同じ夢を持つ仲間たち)、この荒波の先で待ってるぜ!」
映画ラストで捧げられるメッセージには、そんな意味も込められている気がしてなりません。
...というわけで、ジョン・カーニー監督特集の、感想集でした(ややこしい)。
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