-Death On The Stairs-

So baby please kill me Oh baby don't kill me 浦和とかサッカーとかサブカルとか。

ぼんやり映画感想:救いもない、赦しもない、ただ解はある。「MANCHESTER BY THE SEA(マンチェスター・バイ・ザ・シー)」(ネタバレあり)

※本文にはネタバレが含まれます。必ず映画を視聴した後か、あるいはネタバレOKの方のみお読みください。

どうしても見たい映画の一本だった「マンチェスター・バイ・ザ・シー」を見てきたので、雑ではありますが、感想を残しておこうと思います。

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※日本版のポスターはやたらと情報量が多くて、ゴチャゴチャし過ぎ。静かな映画に対してあのポスターは合わないと思います(まぁ、あれくらい乗っけないと人来ないのかもしれないですけど)

 

解説:

ジェシー・ジェームズの暗殺」「インターステラー」のケイシー・アフレックが主演し、心を閉ざして孤独に生きる男が、兄の死をきっかけに故郷に戻り、甥の面倒を見ながら過去の悲劇と向き合っていく姿を描いたヒューマンドラマ。「ギャング・オブ・ニューヨーク」の脚本で知られるケネス・ロナーガンが監督・脚本を務め、第89回アカデミー賞では作品賞ほか6部門にノミネート。アフレックが主演男優賞、ロナーガン監督が脚本賞を受賞した。プロデューサーにマット・デイモン、主人公の元妻役で「マリリン 7日間の恋」のミシェル・ウィリアムズ、兄役で「キャロル」のカイル・チャンドラーが共演。アメリカ、ボストン郊外で便利屋として生計を立てるリーは、兄ジョーの訃報を受けて故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーに戻る。遺言でジョーの16歳の息子パトリックの後見人を任されたリーだったが、故郷の町に留まることはリーにとって忘れられない過去の悲劇と向き合うことでもあった。(映画.comより抜粋)


アカデミー主演男優賞受賞『マンチェスター・バイ・ザ・シー』予告編

www.manchesterbythesea.jp

 

感想:

製作マット・デイモンで、本来が彼が主演も務める予定となっていた本作。諸々の事情により主演を下りることになった彼が後任として指名したのは、親友であるベン・アフレックの弟=ケイシー・アフレック。「この映画をきっかけに不遇な境遇に別れを告げてほしい」。そんなマットの熱い友情が実を結んだだけでなく、作品としても高い評価を得た本作。アカデミー賞では6部門にノミネートされ、脚本賞と主演男優賞を受賞しました。特に前段のような事情で主演を任されたケイシー・アフレックの受賞コメントには、多くのアカデミー会員たちがスタンディングオベーションでこたえていたのが印象的でしたね。

そんなわけで公開前から割と話題だった「マンチェスター・バイ・ザ・シー」ですが、やはり日本公開ではパンチが足りないのか、現在都内での公開は恵比寿ガーデンシネマと有楽町ヒューマントラストシネマのみ。公開規模の小ささは寂しい限りですが、映画の内容的にも「万民向け」とは言いづらいところもあって、致し方なしでしょうか。

私は恵比寿で拝見しましたが、客席は8割方埋まっているなど、なかなか好評な様子でした(公開が2館だけだからというのを差し引いても)。

 

ケイシー・アフレック演じるリーの佇まい。

映画はケイシー・アフレック演じるリーという男が雪かきをしている...というなんともぼんやりしたシーンから始まります。その後彼がどんな仕事をして生計を立てているのかが散発的に描かれるのですが、そこでの彼の様子が少し変。会話には生気がなく、目も虚ろ。パッと見ただけで「何か問題を抱えている」ことが分かります。

とはいえ、それは分かりやすい「不自然さ」ではなく、あくまでも社会に「適応した」うえで、その社会に「居場所がない」ような異物感。そのバランスを保った佇まいに、ケイシー・アフレックがこの役にかける気合が伝わってきます。

物語の主役はこのリー。彼が抱える問題とそのあらましが物語が進むにつれ明らかになっていく構造になっています。

 

■静かでゆっくりとした時間経過

兄の訃報を受けて地元に帰るにことになるリー。彼の地元が「マンチェスター・バイ・ザ・シー」という都市であることがここで初めて分かります。この静かな田舎町は、ボストン市民にとっての静養所となっている場所。どこかのどかな雰囲気があります。物語もそんな街の雰囲気に倣ってか、どこかゆっくりと進んでいきます。映画開始からかなり時間が経過しても、目に見える事件は起きません。ただこの町でのリーと甥っ子のパトリック、その周りの人々の日常が淡々と描かれていくのです。もしかしたら人によってはこの「何も起きない時間経過」が辛さを感じる要因になるかもしれません。

 

■継続する緊張感

一件静かに見える物語。しかし合間合間に挟み込まれるリーの「フラッシュバック」が物語に対する没入感を失わせません。彼自身が回想する「過去の自分」を見る限り、リーは元々「明るい性格」の人物でした。家族との関係も良好な「普通」の父親だったはずのリー。そんな彼がなぜ「現在の人柄になってしまったのか」。そのきっかけとなる「事件」がジワジワと明かされていくこともあって、物語は常に緊張感を保っています。

また、リー自身の「不安定さ」も、我々に緊張感を強います。酒場では誰彼かまわず喧嘩をふっかけるリー。彼は「他人からの視線」や「陰口」に酷く怯えています。また長らく会っていなかった甥っ子であるパトリックの「後見人」を務めることになったことも、彼を精神的に追い詰めていきます。

「不安定」なリーがいつ「爆発する」かは誰にも予見できません。だからこそ、リーが画面に映っている間、我々は常に緊張を強いられることになります。(実際リーが突如として”キレる”シーンも何度か挿入されます)

この「緊張感」は計算された演出のように思います。物語の中心テーマとしてある「ほんの些細なきまぐれや不注意が人生を狂わせる」ということを象徴させるようなモチーフが、ところどころに登場するからです。その際たるものが「車」であるように思います。

 

■多用される「車内」映像

本作で印象的なもののひとつが「車内」映像の多さです。田舎故に「車」での移動がマスト、自然と「車内」での会話シーンが増えるのは仕方ない部分もありますが、とはいえその登場回数の多さは群を抜いています。パトリックと共に最初に病院に向かうシーンでは、ちょっとした言葉の行き違いからパトリックが車を下りる瞬間に車を発車させようとして、あわや事故に!というシーンがあるように、「リーの不安定さ」は「車の運転」にも如実に現れています。

とかく急発進や急ブレーキを使用したり、よそ見運転をしたりする彼の運転を間近で見せられることは「もしかしたらいつか車で大事故が起きるのでは?」という想像を働かされます。(結果としてこれはミスリードに終わりますが)

先ほども触れた「ほんの些細なきまぐれや不注意が人生を狂わせる」というテーマ。その中には「車の運転ミスによる過失事故」というものも含まれます。監督の前作「マーガレット」では、「それ」が「物語の起点」になることを考えても、この執拗な「車」映像の多用も意図的なものでは?と思えます。

 

■赦しではなく、断罪されたい男。

自身の「うっかり」ミスによって、信じられない「大参事」を引き起こしてしまったリー。彼の「心が壊れてしまった」のは、そのことがきっかけでした。しかし「うっかり」ミスだったことで、彼は「罪に問われず」結果として「誰からも罪に対する裁きを受けられない状況」になってしまったことが、物語中盤に明かされます。

自殺してしまいたいほどの「罪」を抱えながら、彼が自殺できないのは、恐らく自殺すら「自らに赦しを与える行為」だと考えてしまっているからではないでしょうか。それほどに彼の心に巣食う闇は深く、重いものです。

物語終盤。ある重要人物から「赦し」を得るリー。しかし彼はそれを全くもって受け止めきれません。彼が欲しいのは「赦し」ではなく、「断罪」なのです。強いて言うのなら「断罪」のみが彼にとっての「赦し」になるのです。しかし、それを与えてくれる存在は、今はどこにもいません。

 

■兄が与えた「断罪」

ここでふと思ったのは、兄がリーに残した遺言とは、「赦し」ではなく「断罪」だったのではということです。不治の病に侵され、余命5~10年と診断されていた兄。彼がリーに全く相談することなく、自身の息子の後見人にリーを据えたのは、彼を「罪を背負った街」である「マンチェスター・バイ・ザ・シー」に引き戻し、改めて「罪と向き合う時間」を作らせる為だったのではと思えるのです。

彼にとって「他者からの赦し」は真の意味での「赦し」にはならない。彼にとって大事なのは、「自分の罪」と向き合い「自分自身を断罪」し「自分自身を赦すこと」なのだと兄は気づいていた。だからこそ、彼をこの街に引き戻す方法を算段した。そんな風に思えて仕方ないのです。

 

■救いもない、赦しもない、ただ「解」はある。

映画は最後に至るまで、リーに分かりやすい形での「赦し」は与えません。ただし、自らの「罪」と向き合ったことで、彼は改めて自分自身の「傷」が癒えないことを自覚し、その上でほんの少しだけ「前に進むこと」が出来るようになります。

その「解」が「新しい家」であり、そこに甥っ子であるパトリックが「遊びに来る部屋を用意する」ことでもあります。

「人生はオペラではない」これは監督の前作「マーガレット」の中で使用された台詞とのことですが、

(詳しくは下記にて町山さんが解説されています)

tomomachi.stores.jp

正しくその思想を反映するように、この作品のエンディングにもいわゆる「劇映画的」な「感動のエンディング」は用意されていません。ただし、それで良いのです。

この映画に限らず、多くの人が多かれ少なかれ「罪」を背負って生きているはず。そしてそれらの「罪」には、分かりやすい形では「赦し」は与えられないし、「断罪」もされません。そうなればこの作品のリーのように「罪」を「癒えない傷」として受け入れた上で、進んでいくしかない。そんな「解」を与えてくれる作品でした。

静かで、何も具体的な事件が起きないこの映画が、それでいて「深い感動」を与えてくれるのは、そんな我々の人生においても「普遍的なテーマ」を伝えてくれているからだと思うのです。

個人的には今年見た中では「沈黙-サイレンスー」に並ぶ傑作でした。おすすめです!