”ここではない何処か”なんて、どこにもない。~「空の青さを知る人よ」感想~
※ネタバレありです。
「井の中の蛙大海を知らず されど空の青さを知る」
相生あおい(17歳・女子高生)は「井の中の蛙」である。
知らず知らずのうちに肥大化した自尊心を「壁に囲まれた」秩父の山中で持て余している様を象徴するように、彼女の背中には「大仏」がいる。
この大仏は秩父の山中にひっそりと佇む芦ヶ久保大観音像に由来するものだろうけど、この物語と「仏」とを繋ぐフックはもう一つある。
「ガンダーラ」といえば、1978年に放映されたテレビドラマ「西遊記」のED主題歌であり、「西遊記」とはもちろん、三蔵法師と愉快な仲間たちが天竺を目指して旅をするあの「西遊記」である。
人語を操る猿の妖怪。地球育ちのサイヤ人ではない方。
孫悟空といえば、岩山に閉じ込められていたところを三蔵法師に救われ、そこから彼らの旅が始まるというエピソードはかくも有名だが、そもそも孫悟空がかような罰を受けることになったきっかけといえば彼の「驕り高ぶり」が原因であった。
己の能力を過信し乱暴狼藉を働く孫悟空を諫めるために仏様が勝負を挑む。
「私の掌から飛び出すことができればお前のふるまいに口出しをしない」。
「馬鹿にするな」と筋斗雲に乗り込んだ孫悟空は世界の果てを目指し、たどり着いた場所に自分の名前を記す。意気揚々と戻ってきた悟空は仏様にその報告をするが、そこで彼が目にしたのは自分の名前が書かれた仏様の指先であった。つまり悟空が世界の果てと思った場所も仏様の掌の上に過ぎなかったという逸話。
自らの能力を過信し、やみくもに「東京」に向かおうとするあおいには、この孫悟空の姿が重なる。
彼女は一人でどこまででも行けると信じているのかもしれないが、しかしその背中には常に「仏」がいて、彼女はその掌から出ることはできない。そして仮に東京へたどり着いたとて、彼女は確実に幸せになれるわけでもないし、何かを手に入れられるわけでもない。
かつて東京へ飛び出したしんの*1が、望む「自分自身」を手に入れられずにいるように。
「ガンダーラ」は切り取りようによっては、「外に幸せを探しに行く」歌であるが、その実「外にあると思われている幸せは幻にすぎない」ことを教えてくれる曲でもある。
“生きることの苦しみさえ 消えるというよ 旅立った人はいるが あまりに遠い”
答えは外にではなく、自らの内にしかなく、それを追い求め永遠に「内なる旅」を続けなくてはならない。というのはとても仏教的だ。そして今作においてそれを知っているのは、あおいの姉である相生あかねである。
彼女は「ここではない何処か=大海」ではなく、「自分自身を見つめること=空の青さ」の大切さを知っている人で、そのあかねの「本質」を、「大海」ばかりを追い求める二人(あおいとしんの)が知ることで、彼ら自身が自らと向き合い、己の「足りなさ」や「弱さ」を受け止め、それを肯定することができるようになる、というのがこの物語自体の本質だ。
思った以上に仏教的な物語で面食らうが、しかしまぁこのように理解するほかない。
かつて我々は「ここではない何処か」を目指すことを強いられた。*2
けれど知ってしまった。「ここではない何処か」なんて、どこにも無いことを。
だとすれば今立っている場所で、やれることを精一杯やるしかない。
そんなメッセージ性は「天気の子」にも通ずる部分がある。
「今いる場所で己と向き合い、自分自身を肯定していくことによって幸福を得る。」
果たしてそれが本当の意味での「幸福」なのかはわからないが、しかし外的要因による幸福を得難い現状においては、そのメッセージが発せられることには幾ばくか同意せざるを得ないのも事実ではある。
それでも個人的には、空の青さを知ったうえで、大海へ漕ぎ出す蛙の物語が見たくもあるのだけど。