-Death On The Stairs-

So baby please kill me Oh baby don't kill me 浦和とかサッカーとかサブカルとか。

HELLO WORLDに関して考えたことの覚書

※当記事は映画および原作小説「HELLO WORLD」のネタバレが多分に含まれます。ご注意願います。

※当記事の目的は物語そのものの感想を述べることでSF的解釈を考察するものではありません。そちら方面をご期待の方にお答えする力量がございませんので、何卒ご了承ください。

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映画「HELLO WORLD」を見た。正直なところ映画そのものに対しての新鮮な驚きみたいなものはそれほどなくって、それでも諸々の解釈の答え合わせがしたくって原作小説を購入し読んだ。

驚いた。

作品に対するインプレッションそのものが大きく変化したからだ。

お話自体は映画と原作小説とで大きく差はない。映画のために書き下ろされた物語である以上、そこに差異があってはかえってダメだろう。

けれどある部分が決定的な差となって、得る感覚が大きく変化したのだ。

正直なところ、ここまで感覚が変化するとは思っていなくって、この感覚を書き留めておこうと思って筆を取っている。

この記事はそんな僕の”解釈”に関する記事なので、正当な解釈とは程遠い可能性もある。それでも良ければちょっとお付き合いいただきたい。

 

■映画と原作のインプレッションが異なる理由

先ほども書いたがストーリーの骨子は映画も原作も変化はない。なんなら細かいセリフなどもほとんどそのままと言っていい。違いがあるとすれば原作には登場人物たちの心情描写がしっかりと描かれている。

主人公たる肩書直実はもちろん、彼の前に現れる大人の自分=肩書ナオミ、ヒロインである一行瑠璃に関しても場面によって心情が描かれる。終始直実の一人称目線で進む映画版に対して、この視点変化は作品への理解を近づけるうえで非常に有用だった。

とはいえ両媒体を比較する部分においてもっとも大きな要素は、物語におけるどの「場面」に重点を置いて描いていたか、という点だと思う。

原作において物語のハイライトとなるのは、直実がナオミによって瑠璃を奪われ、自らの住む世界そのものを”消去”されそうになる中で、自らの運命を受け入れずに、自分のために、そして瑠璃のために「飛ぶ」ことを選ぶシーンだ。

全333頁(文庫版)の小説において直実がこの”決意”を下すのは250頁付近。つまりかなり後半ということになる。後述するが、今までなかなか「飛ぶ」ことが出来なかった直実が自らの殻を破って「飛ぶ」こと。何も約束されていない「未知」へと勇気をもって飛び込むこと。そこに「物語のカタルシス」が用意されているように見える。

翻って映画版では同上のシーンは「中盤の盛り上がり」という印象が強い。

映画においてはこの後の瑠璃を守りながらの逃走劇、ナオミとの和解と別れ、そして「ラスト1秒でのどんでん返し」。ここに重点をおいた作劇であるように見える。

もちろんCGをふんだんに使ったアクションシーン等は、本作が映画故に見せたかった見せ場の数々であることも理解できるし、それはそれできちんと機能していたように思う。

あるいは「どんでん返し」は予告でも使ってしまったいわゆる「ヒキ」の要素なので、重視しなくてはいけなかった、ということも分かる。

反面、ここを見せようとし過ぎたあまり、本来の「テーマ」にあたる部分がぼやかされてしまった印象もある。だからこそ僕は映画だけを見たのではこの作品の「好き」な部分に気づけなかったと思うのだ。(単純に僕の感性が鈍いだけ、というのはこの際目を瞑っていただけるとありがたい)

 

■マニュアル

HELLO WORLD」の物語を考える上で重要だと思うのは「マニュアル」。

肩書直実は意気地が無くておどおどした自分を変えるために、自己啓発本で自己改革を目指す(そしてそれは敢え無く失敗する)。

突如現れた大人の自分(ナオミ)に、「彼女を作れ」と言われ「そんな経験はないから無理」と拒むものの、そんな彼にナオミから手渡されるのは「最強マニュアル」。

自分と彼女(瑠璃)が「お付き合いすることになる」までの「流れ」をそのまま収めた日記。いわゆる「攻略本」。「これに従えば問題ないから」と促される形で直実は瑠璃という牙城に挑むことを決める。

つまりなんにせよ「マニュアル」が無ければ動けない男、というのが肩書直実という少年だったわけだ。

 

■マニュアルなき世界へ飛ぶこと

HELLO WORLD」において物語が「動く」タイミングは、この「マニュアル」を逸脱するタイミングだ。順調に進んでいた「最強マニュアル」の再現ロードにおいて発生する「古本市」というイベント。ここで起きる事故と「古本市の中止」というイベントは本来であれば瑠璃との距離を縮めるためには重要なイベントである。しかし瑠璃を「攻略対象」ではなく本当に「尊敬する対象」としてとらえ始めていた直実はこのイベントをスルー。万能のツール「グッドデザイン」を用いて瑠璃の宝物であるところの祖父の蔵書復元を試みる。

「マニュアルの逸脱」。「バタフライ・エフェクト」という用語があるように、ちょっとした変化が決定的な歴史改変の要因になることもある。ひょっとしたら目的である「瑠璃と恋人同士になる」という結末にたどり着けなくなる可能性すらある。けれども直実は躊躇せず「そちら」を選ぶ。

肩書直実という少年の「成長」の一歩目はこの「マニュアルの逸脱」によって描かれる。そしてここで「逸脱」できたこと、それをもってしても一行瑠璃と「結ばれる」という結果を得たことが、後の直実の決定的な決断を後押しする要因にもなっていく。

結果がわからないことには、挑まない。

自分はずっとそうだ。生まれてから今日まで、ずっとそうだ。変わっていない。絶対に変われない。未来の自分が来てからだって、それは同じだった。『最強マニュアル』を妄信しながら、答えがわかっていることだけやってきた。レールを外れたことなんて、たったの一度だって。

あ、と思う。

脳裏に浮かんだのは、一冊の本だった。立派な装丁の、古い小説。表紙の端々がぼろけ、大きなしみがついていて、裏表紙に貸出カードが入っていて。

自分が作った、あの本。

思い出した。今、思い出した。僕は、やった。あの時、確かにやった。結果が見えなかったけれど、やめろと止められたけれど、やった。

たったの一度だけど。

自分で決めたんだ。それが出来たんだ。

野崎まど「HELLO WORLD」250頁ー251頁

 一度の成功体験をもって、「マニュアルを逸脱する」こと。それがもたらす価値を知ったからこそ直実は「飛べる」。自らの勇気と思いを信じ直実が「飛ぶ」ことによって、彼自身の運命にも、瑠璃の運命にも「新しい可能性」が指し示される。この「マニュアルの逸脱」によって広がる「未来」と「可能性」こそがこの作品における「テーマ」であるように思える。

 

■あらゆる可能性の肯定

直実とナオミと瑠璃が対峙することとなる敵役=狐面。

この狐面の正体は、アルタラ内の「記憶の重複やエラー」を解消するための「修復システム」。直実はこの「修復システム」と対峙し、(ナオミの助けもあって)これを「停止する」ことで「新しい世界」を獲得するに至る。

思えばこの「修復システム」そのものも「マニュアル」に近しいものとして設定されているようにも思える。

それをはみでた瞬間に「違う未来」が形作られてしまう。「記憶」と「記録」を主とする「アルタラ」において「違う未来」は悪である。だからこそ「違う未来」を作らせないために「修正する=規範となるもの=マニュアル」が必要となる。

「アルタラ」は確かに「京都」を「記憶」「記録」することを目的としていた。その「記憶」のためには「異常」を検知し、修正するシステムは必須だった。けれど「アルタラ」はその強大な記憶容量によって人間の「脳波」までも「記憶」してしまった。そうなると「記憶」されているものはもはや「人間」そのものと考えて相違ないだろう。

ともすれば、そんな「人間」の行動そのものを「マニュアル」において「支配」「規制」することは容易ではなく、この結末を迎えることはひょっとすると千古博士にとっては想定の範囲内だったのかもしれない。

ともあれ「修復システムの稼働停止」と「アルタラの容量解放」によって、「記憶」に過ぎなかった直実と瑠璃は、「記憶」されていない「未来」へと歩みを進めるに至る。まっさらに広がる京都の町を目に手を取り合う二人。その先には「無限に開かれた可能性」だけが広がっている。

「マニュアルを逸脱」すること、その勇気を持つことで初めて手に入る「無限の可能性」。それを「肯定」することがこの物語のテーマであるように思える。

さて実は、その「可能性」こそが、ナオミにとっての「救済」にもなり得ると思ったのは、原作小説を読み終えてからだった。

 

■ナオミに対する救済

劇場版を見た時、肩書ナオミの存在が悲しく、愛おしかった。

自分とは全く別の「個」を確立し、瑠璃に拒絶された自分と異なり、「肩書さん」として認められた直実を見て、自分を「エキストラ」だと思い知り、先んじて世界から「消える」ことで「重複」を解消し、直実と瑠璃の「未来」を祝福しながら消えていったナオミ。

ナオミが直実に「一本化」された結果、解放されたアルタラには彼の記憶も記録も「残らなくなってしまった」。最後の最後に瑠璃に「愛していたことへの肯定と感謝」を告げられるものの、はかなく消えてしまったナオミ。なんて悲しい存在なんだ。映画を見終えた時にはそんな風に考えていた。

しかし原作を読むと、どうにも感想が変わってくるのだ。

というのも、原作では映画において見せ場として用意された「ラスト一秒」の描写が、そのような意図(最大の見せ場としての意図)をもって描かれていないように読めたからだ。

あくまでも「エピローグ」の一遍として、しっとりと挿入されているエピソードとしての「ラスト1秒」。

その描写をもって改めて「肩書ナオミ」についても、もう一度思考する余地があるように思えたのだ。

 

「修復システムの停止」と「アルタラの解放」によって生まれたもの。それは「一本道の歴史」に変わる「無数の可能性」である。

つまり、肩書直実という人間一人とってしても「可能性」は「無限」にある、ということ。

今回の映画によって主人公として描かれた直実の人生のほかに、

「図書委員にならず瑠璃とは出会わない直実」や

「図書委員になるものの瑠璃とは付き合わずに三鈴と付き合う直実」や

「一生誰とも付き合わない直実」も同時並行的に存在しうる、ということだ。

 

ということは「瑠璃と付き合うものの瑠璃が雷に打たれ脳死状態になってしまう直実」も「それを治す為にアルタラ開発者の道を選ぶ直実」も同時並行的に存在する。

要するに「消えてしまった」と思っていた肩書ナオミという存在もまた、「無数の可能性」の解放によって「消えずに存在しうるもの」として復活した、という風に考えられる。

こう考えると「ラスト1秒のどんでん返し」に関する理解が変わってくる。

他の方の考察や解説において「ラスト一秒」部分は、「実際の時間軸では脳死状態に陥っていたのは直実の方であり、瑠璃がその直実を救いだすための物語だったのだ」とされる解説が多かった。*1

しかし僕はそうではないと思う。

「ラスト1秒」で描かれたナオミもまた、「無数」に存在しうる「肩書直実の可能性」の一つであり、そしてこれは「瑠璃を愛すものの、結果その愛を取り戻すことなく消えていくことを選んだナオミ」にとっての「救済」であるように思えるのだ。

瑠璃を愛し続け、瑠璃を取り戻すことに人生の全てをささげた男にとって、今度はその瑠璃から愛され、取り戻されることがどれほどの救いになるか。

そう思えた時、僕はこの物語が心底愛おしいものに感じられた。

「どれかが真実」なのではなくて「どれもが真実」として肯定される物語。

全ての可能性も、全ての人の在り方も、肯定し、背中を押してくれる力強い物語。

同時期に公開された「天気の子」とどうしても比較されてしまうことは否めない作品ではある。部分においてはとても「天気の子」には適わないところもある。

テーマにおいても「天気の子」に比べると幾分か暢気に映るやもしれない。

けれども、僕はこの物語を支持したい。

「何もない地獄」にではなくて、「まっさらな未来」へ期待と希望を描き出す物語が。

あらゆる「選択」と、その「結果」を「肯定」してみせる奔放さが。

「新しい時代」を生きるあまねく若者たちに届きますように。救いになりますようにと祈ってしまうのだ。

 

HELLO WORLD (集英社文庫)

HELLO WORLD if ー勘解由小路三鈴は世界で最初の失恋をするー (ダッシュエックス文庫)

*1:その根拠としてHELLO WORLD if ――勘解由小路三鈴は世界で最初の失恋をする――内でのストーリー描写を上げている方が多数いたが、そもそもとしてこの物語自体が「if」と謳われているし、物語内の三鈴の行動も原作や映画とは異なるものなので、同時間軸の物語として語るには論拠として弱い感がある。